
2年くらい前に、ある日突然幸福感が全身から溢れて来ました。
あんなにも倖せになりたくて努力して、辛抱して、我慢して、男だから…社会人だから…大人だから…って毎日一生懸命に倖せになる為だけに生きて来たのに手に入らなかったそれが、ある日突然湧き起るように全身から溢れて来たんです。
全ては倖せになる為に、仕事も、恋愛も、人間関係も、友達と仲良くすることも、全部やっても全く手に入るどころか…いつも遠ざかっていたようなそれが、ある日突然湧き起りました。
なんとも不思議なことでした。
今になって、人前でこうしてブログを書いたり、講演会を通して体験談を話していたりするんだったら、あの日の前後の様子を詳しく書いておけば良かったなぁって思うことがあります(笑)
でも全部忘れてしまいました。
あの日の幸福感が湧き起って来た瞬間の感覚は今でもリアルに覚えています。
でもみんなが知りたいのはその前後に何をしていたか?ってことなんだろうなぁって。
それを真似すればきっと同じような現象が起こるんじゃないか?ってみんな思っていると思うんだけど、きっと同じことをやってみても同じことを起きないのがこの人生なんだと思います。
この世は本当に思えば思うほど『冗談ゲーム』でしかありません。
そこに自分で色んなキャラを設定し、自分像を設定し、過去の経験から攻略法を自分なりに設定し、そうやって人生に取り組んでいる毎日。
でもテレビゲームのようにプログラムされたストーリがある訳じゃないのがこの人生と呼ばれるゲームの面白いところでもあるんです☆
みんな顔が違って、似合うメガネも違っているにも関わらず、メガネだったらそれぞれ自分で選んで手に入れるんですが、FXになったり人生になったりすると、みんな揃って同じようなものを選ぼうとしちゃうんです。
そこもまた面白いですね。
僕はあの日、これまでの人生で積み上げて来たと思いこんでいたことの全てが幻想というか、自分が勝手に妄想して作り上げた産物だったって事に氣付きました。
信頼も、信用も、自信も、目には見えない何かを大切に大切に失わないようにしてきていたことで、失っていないというよりも、得ていないってことに氣が付きました。
その一か月くらい前から太陽を肉眼で見てボォ~っと過ごす日々が続いていました。
だからといって太陽を肉眼で見るなんてことは決して真似しないでください(笑)
分かりもしなかったのに、『答えは全て自然の中にある』って言葉を考えながら、いつも近所の丘に登って太陽を見ていました。
太陽を見たり、街を見渡したり、風に目を閉じて感じて見たり…
きっと現実逃避していたんだと思います(笑)
仕事も失い、貯金もなく、頼りにしていた人から怒られて、信用を失ったと思い込み、あまりの辛さに頼りにしていた人でさえも、もうご縁を切ろうって考えたりしていました。
毎日目が覚めたら身体をお越し、無氣力状態が何日も続いていたと思います。
笑うことも忘れて、いつもの窓から見えるいつもの風景をぼんやり眺め、その風景に飽きたら近所の丘に登る…。
そんな自分をいつも責めていました。
あれこれ考えても答えに辿り着かず、またあれこれ頭に浮かぶままの思考に振り回されて、瞑想に変な期待をしてここから抜け出させてくれるんじゃないかって。
でも外側に求めても何一つ自分を救ってくれることはありませんでした。
でも今になって思えば、自分が大好きだったからこそ、今の目の前の現状に落ち込み、悩み、苦しみ、考えて、また落ち込んで…そんなことを繰り返していたんだよなぁって思えますが、あの頃は全く思えない毎日。
考えて諦めて、また考えて諦めて…そんなことを繰り返して考えている内に、僕の中で何かが繋がった瞬間がありました。
あれ?
思っているほど問題って深刻なんじゃないんじゃないか?
お金はないけど、ここまでないならある意味無敵なんじゃないか?
得ていたと思っていたけど、得てすらいない幻を無くさないようにおびえていたけど、得てないなら失いようがないよな…
そんな瞬間に、全身から幸福感が湧き起って来たのを覚えています。
倖せになる為に、全てのことに取り組んできたのに、全てを失って何もなくなって、無くなるまでこんなことに氣付かなかったなんて…
そんな自分の馬鹿さ加減に笑ってしまいました。
その日を境に、これまで30年以上怯えてきた不安や恐れはどこかに行ってしまったようです。
仕事をしなければいけない…
お金を稼がなければいけない…
何かしなきゃいけない…
一家の主だから…
家庭を守らないといけないから…
ご飯を食べさせないといけないから…
みんな仕事してるから…
これまでに行動の原動力となっていた○○しなければならない、〇〇するべき、が消えたんです。
深刻だったのは世の中ではなくて、自分の頭の中だけだったってことにも氣付きました。
その日から連鎖的に次々と色んなことが深刻さを失っていきました。
氣がつけばいつも笑っている自分がいました。
笑って笑っていつも笑っていると、時には意味もなく涙が止まらない時もありました。
口からは言葉にならない『倖せだなぁ…』って言葉が出て来るんですが、顔はグシャグシャになって泣いている…
なんで泣いているのか?
なんで涙が止まらないのか?
全くあの時には意味が分かりませんでしたが、意味もなく涙が止まらなかった時がしょっちゅうありました(笑)
今思えば、きっとこれまでの人生で泣きたい時に我慢して溜め込んできた色んな感情が、大笑いしまくる中で何かの拍子に溢れだして来たんだと思います。
男は泣いちゃいけない
これを信じて、男としての生き方に変なこだわりをもって生きてきた分、そう言えば何年も泣いていなかったことにも氣付きました。
いっぱい笑っていると、色んな感情に触れるのかもしれません。
でも笑いってとんでもない可能性を秘めていることだけは今はよく分かります。
免疫力もあがるんだそうです。
笑っている最中だけは恐れや不安が顔を出せないそうです。
笑っている時には思考が強制的に停止しているそうです。
これって凄いことだなぁって思いました。
それから一か月くらい後、見性体験が訪れました。
その瞬間にはまた、思わず笑ってしまいました。
なぁ~んだ♪そういうことか!
あの日を境に、自分を心底愛するようになりました。
一切の自己否定をしなくなりました。
世の中の目を氣にしなくなりました。
人の評価が氣にならなくなりました。
鏡を見る度に心から自分に対して愛しさがこみ上げるようになりました。
自分という存在に、生まれて初めて心から感謝することが出来ました。
そうすることで、両親にも心から感謝でき、直接御礼を伝えることが出来ました。
『ありがとう♬おかん!俺は今人生で一番倖せやわ、ありがとうな』
そしたらさっきまで笑っていたのに、また意味もなく涙が溢れて来て隠れて号泣しました。
そしてまた毎日大笑いしました。
倖せだから笑うんじゃない、笑っているから倖せになる
これまでも講演会でずっと伝え続けて来たことです。
あんなにダメダメだった自分が、こうして変化出来たキッカケは、笑いを思い出したことです。
笑うことだったら誰にでも今から出来ます。
そして、続けることに年齢も性別もお金も何も一切必要ありませんし、関係ありません。
だからこれから、自分はどんな人生になっていくのか想像すらしたことありませんが、それでも周りにいる人が笑っていられるような環境を作っていきたいと思っています。
笑う門には福来る
笑う門には知井道通
みんなが心から笑える為に必要なものはなんだろう…
これからもそんなことを考えて生きたいなぁって思います♪
コメント
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先月末に5日間だけ自分もその他も全て超絶完璧だった、思考は今の思考以外ウソで思考は自分じゃない、私が輝くために必要なものは全て今ある、なんだ最高だったんだこの状態で、その証拠に生きてる、私は私を生きている。いきなり景色が生き生きとして別世界でした。私は幼い頃からずっと笑顔を絶やさず生きて来たんです、笑顔だけが自分を守る武器でした。だから逆に今は押し殺していた自分の感情が溢れて来て悲しくて死にたくなる。でも感情は自分ではないと体感したのでただ感じてます。「女は笑顔」信じ切っていました!私も心から笑えるようになったら見性体験あるかな^m^(欲)
こんばんはヽ(´▽`)/
素敵な体験をされたんですね✩
5日間という期間よりも、そういう体験が出来たってことが何よりも僕は素晴らしいと思いますよ✩
それこそ完璧じゃないっすか♬
『女は笑顔』
とってもいいですね♬
笑顔の女性は世の中を明るくすると思います✩
とにかく笑っていられるような日常の選択を意識していきましょうね♬
そこに無理がかかって心に支障が出るような選択ではなくて、自然に自分が笑っていられる選択をする練習ですね✩
見性体験は倖せを産みません。
それよりも今自分がいかに倖せかってことに氣付ける自分でいられるかどうかが、僕は見性体験に繋がっていくのかもなぁって思っています。
見性体験するから倖せというより、逆の発送で、倖せだからこそ見性体験に至るみたいな(笑)
知井さん、おひさしぶりです。現在も適当に楽しくfxしています。
ところで、覚醒体験のことで、
知井さんの言われる、『なーんだ、そういうことなんだったんだ』というのを、もう少し詳しく教えてください。
どういうことだったんですか?
わたしも見性体験かどうか、自分でも分からないんですけど、意識が肉体から出てしまって、とても平和で安心で、心地よい状態になったことが2度あります。
でもわたしは今でも自我があり、不安や悲しみや、絶望感にさいなまれることがあります。
こんばんはヽ(´▽`)/お久しぶりです♬
楽しく出来ることが何よりも最高ですねヾ(*´∀`*)ノ
しかめっ面してやっていても何も学びってありませんもんね✩
なーんだそういうことだったんだ…ってのは、色んな本に書いてあるこれまで分からなかったことの数々、ワンネスとか言われていたこと、よくあちこちに書かれている自分というもの、本来の自分、などなど…
今までどれだけ本を読んでも考えても分からなかったことの数々です。
そして、自我は無くなったりしません。
これは見性を体験しようが、何をしようが自我がもしも完全に消滅してしまったならば、この世に存在していることすらも認識は不可能です(笑)
だから自我があって当然なんですよ♬
もしも自我が常にないなんて言う人がもしもいたら、嘘つきです(笑)
不安や悲しみ、絶望感だって僕にもあります。
ただ、それらを見る位置が変わったような感覚です。
なので薄れるというか、それらを感じる時間で言うと極端に短い。言葉にするとそんな感じでしょうか…
逆に僕は意識が肉体から出てしまうって体験の方が興味深いですね✩
おはようございます。
私はどうしたら幸せになれるか、人の目を気にしなくなれるか、人の評価を気にしなくなれるか、性格は変えれないか、ずっ〜と思ってます。
いろんな事を思って知井さんの講演聞きに行ったり、本読んだりしています。
聞きに行った時はあ〜そうなんだ、笑っていようと思えるんだけど、時間が経つにつれまた元に戻ってしまい、また本読まなきゃ、話し聞きに行かなくちゃ‼
とそんな繰り返しです。
何やってんだろう⁇という毎日です…>_<…
ずっとそんなことばかり考えてる人生です。
おはようございます( *´艸`)
大橋さんの思っていることを解決するのに必要な時間は、今だけです☆
倖せになる為に必要なことは、今の自分にどれだけの感謝が出来るかです♪
こうして生きているだけでも倖せですし、物を見て、触れて、感じて、考えることが出来ることも倖せです。
生きたくても生きることが出来ない人もたくさんいます☆
比較するものではないかもしれませんが、倖せは目に見える何かを得ることで成るものではなくて、今ある目に見えないことに氣付くことだと僕は思っています♪
人の目も見られているようで実はそんなに見られていないって思えたことが僕はとっても楽になりました♪
人の目に怯えている自分の目が怖いのかもしれませんね(*´▽`*)
人の評価も、その評価するであろう人も、自分の人生で精一杯で一生懸命に自分を見て欲しくて評価して欲しくて生きています☆
だからこそ、人の評価までは自分の評価ほどに真剣に考えていないのかもしれません。
だから僕は、その日その時々の機嫌で変わるような評価を氣にするよりも、毎日変わらずに自分をいつも見ている自分の目だけは否定しないって心に決めました☆
最初はぐらついてしまうこともありましたが、心に決めて意識することで、それは行動になって習慣になっていきました。
でもね、人の話をいくら聞いても、本をたくさん読んでも、僕たちは自分の経験上のことしか信用しません。
ようは自分のことしか信じないってことです☆
だからこそ、自分だけは自分のことをいつも見ているんだから、自分のこと、もっと信じてあげていいんじゃないでしょうか⁉
その時に誰かや何かと比較する必要もありませんし、何かしらの条件もいりません。
今の落ち込んじゃったり、元氣になったり、浮き沈みもする…そんな自分を認めてあげるんです☆
たったそれだけが、自分だけが自分を救うことが出来ると僕は思っています☆
だからこそ、多くの人が『そのままでいいんだよ』って言うんだと思います\(^o^)/
僕は自分で自分を見て、良い所も悪い所もたくさんあります☆
それを治すことで自分を認めるのではなくて、このまんま認めただけです♪
そんな頑張る背中を押すことくらいしか出来ませんが、それでよかったらいつだって背中押しますからね☆
有難うございます。
自分を信じます。
知井さん、また背中押してください(≧∇≦)